Contents
ツーリングの人気スポットが目白押しの信州の中で、それほど有名ではないけれど、すばらしい場所が存在しているのだとか。そんな噂に流されつつ、いにしえの道・中山道をたどり標高1,600mの高原へと駆け上がってみれば…。なるほど、そこには存在そのものがアルプスの大展望台といえるような場所が広がっていたのであった

写真・キャプション=武田大祐:タンデムスタイル創刊から本誌を撮影。正統派ツーリング企画からタンスタ特有の変わり種企画で 歴代編集長のあられもない姿を撮影し続けてきたカメラマン
ライダー・文=谷田貝洋暁:約10年間にわたりタンデムスタイルを作り続けた元名物編集長。現在はそのノウハウと人脈を活かし、フリーランスとして活躍している
今回のツーリングスポットはこちら
- 永代人馬施行所
- 歴史の道資料館かわちや
- 蕎麦や・徳田
- 和田峠農の駅
- 鉢伏高原スカイライン
- 高ボッチ山荘(鉢伏山荘)
- 鉢伏山
- 塩尻峠
- 薬師平茜宿
- 諏訪湖
- 万治の石仏
- 諏訪大社・下社秋宮
- 片倉館
※本記事は2019年6月24日発行タンデムスタイルの企画をベースにしています
ツーリングを記録するならRISERアプリ
RISERアプリをダウンロード「App Store」「Google Play」
中山道の難所「和田峠」を越えていく
江戸の時代、東海道・日光街道・奥州街道・甲州街道と並び、五街道に数えられた中山道。今でこそ国内の物流の本線は、国道1号にしても、東名・新東名高速道路にしても太平洋。つまり東海道が基準になっているものの、江戸の当時は中山道の方が、東海道よりもメジャーな存在だったのだ。海側を通る東海道は、江戸から京都まで行くとすると、海沿いのおかげでおおむね平坦で歩きやすいものの、富士川・安倍川・大井川・天竜川といった大きな河川を渡る必要があったのだ。とくに大井川には、防衛上の理由から橋はなく、雨で増水すれば何日も足止めをくらうこともしばしば。つまり確実性にかけたというのだ。
一方の中山道は、いくつもの峠を越さなければならない山越えの道ではあるものの、日程の計算が確実に立つ。それに東海道に比べて治安がよかったらしいのだ。そんなことは、なんとなくの知識で知ってはいるものの、正直現代を生きる僕に実感はない。なんせバイクに乗って地図を意識するまで中山道と甲州街道がごっちゃになって「中山道って国道20号だよね?」なんて言ってたくらいである。しかし、不思議なもので一度気になり出すと、いろいろと疑問がわいてくる。
まず実体がないのだ。まぁ、これこそが中山道と甲州街道が僕の中でごちゃまぜになった理由なんだろうけど、他の五街道とは違って、中山道は主要国道に指定されていないのだ。東海道・日光街道・奥州街・甲州街道の他の四街道は、それぞれ国道1号・国道6号・国道4号・国道20号として名前が変わり、道の位置が若干変わったとしても街道としての機能が今でもきちんと残っている。
一方の中山道は、なぜか代替となる主要国道に指定されず、起点である日本橋を出発すると、国道17号・18号・142号と進むほどに国道名がコロコロと変わる妙な道なのだ。いつだかそんな「よくわからない」中山道を知りたくて、起点である日本橋から、終点である京都三条大橋まで、スーパーカブを走らせてみたことがあった。だけど、結局のところ走り抜けただけでは、なぜここがメジャーだったのかはわからずじまい。ただ、実走してみて感じたのは、中山道にはわりと旧道や古い町並みが今でも残っているということだった。国道・バイパス・高速道路と時代によってその太さも場所も移動していくのが道というものだ。つまりどんどん利便性を求めて新しくなり、古い道は物流拡大のために拡張されたり、そもそも移動することで上書きされていく。
東海道などは国道1号線を東京から京都まで通しで走っても、よほど意識しないかぎり、旧街道の存在を感じることができる場所は少ない。それほど様変わりしてしまっている部分が多いのだが、中山道は逆なのである。細切れにはなっているものの、現在の主脈道路の脇に旧中山道が残っていたり、交わったりして旧中山道の面影がけっこう残っている。スーパーカブを走らせたときには途中でそれに気がついて、なるべく旧道を走ってみようと思ったのだが、これが意外に難しい。というかあまりに細切れすぎて時間がかかり、旧道を完全にトレースするのはムリだとあきらめたのだ。今回の旅はいわば、その旧中山道をたどる旅のリベンジ。とはいえそんな旧中山道の痕跡を探しながらでは一気に走れないことはすでに学習している。今回は、この和田宿から塩尻宿までの区間にねらいを定めたというワケだ。
なぜココか? 中山道には、三つの大きな難所があるという。碓氷峠、鳥居峠、そして今回訪れる和田峠。尾根の鞍部を通る峠越えとはいえ、和田峠の標高は1,602m。和田宿の標高は820mで下諏訪の標高は760m。ざっと800m登って800m降る。これはもうちょっとした登山。しかも、和田宿から下諏訪まで他に宿場はなく、昔の旅はこの道のりを1日で越えたというから驚きなのだ。
永代人馬施行所

今回の旅は信州は中山道の和田宿から。雨模様だったので『永代人馬施行所』というかつての休息所で雨宿り。ここでは冬 に峠を越える旅人をおかゆとたき火でねぎらったそうだ。そ れでも冬の峠越えは厳しく、行き倒れになる人もいたという
歴史の道資料館かわちや

和田宿に残された『歴史の道資料館かわちや』にて。説明してくれた人によると、幕末 に皇女和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐために、江戸に向かったときの行列は、なんと3万人だったとかで、3日がかりでこの前を通過したらしい
蕎麦や・徳田

和田宿の『蕎麦や・徳田』で田舎蕎麦を食す。風情ある店内で蕎麦もうまかった。やっぱり街道旅には蕎麦屋が似合う
和田峠農の駅


中山道の中でも難所といわれた和田峠。徒歩で上がってみれば、遠くに下諏訪の町並みが見えた。往事は和田宿からあそこまで が1日の移動距離。昔の人はよく歩いたものである。左上のうどんは和田峠の『和田峠農の駅』のキノコ山盛りのうどん

現代人も中山道を歩いていてビックリ。このお方、歩いて日本橋からきて、さらにこれから京都へ向うという。大変かと思いきや、本人はすこぶる楽しそう
ツーリングを記録するならRISERアプリ
RISERアプリをダウンロード「App Store」「Google Play」
大パノラマが広がる高ボッチ高原
そんな難所越えの最前線基地となった和田宿には、江戸情緒を残す古い町並みが今もなお残っていた。『歴史の道資料館かわちや』で聞いた話では、最盛期には 軒もの宿場が軒を連ね、皇女和宮(こうじょ・かずのみや)のお輿入れの行列が和田宿を利用した際にはその 軒もの宿をもっても宿泊できず、位の低い人足は軒下で寝させられることになったとか。ちなみに皇女和宮とは、200年にわたる鎖国をやめた江戸末期。押し寄せる諸外国を恐れ、皇族である朝廷と、幕府である徳川家が結びつくことで国内勢力を強化しようという国策があった。早い話が、皇族と徳川家が結婚する政略結婚ってワケだけど、その白羽の矢がたったのが当時16歳の皇女和宮だったのだ。
ただ皇族は、今とは違い京都に住んでいたから、和宮は江戸まで出てこなければならない。そのときに使った道がこの中山道。お輿入れの大行列は三つの宿場にまたがったまま、江戸へと進んでいったのだとか。そんな話が大河ドラマの『篤姫』で登場して以来、中山道は密かなブームに。旧中山道を訪ねてくる人も増えているという。そのおかげなのだろう。和田宿から和田峠へと伸びる国道152号線には『中山道』と書かれた案内板がいたるところに表示されている。旧中山道の痕跡をたどる旅人のために用意された道標である。
今回はそんな看板を頼りに可能な限り旧中山道を通過しながら、和田峠を越えてみようというわけだ。さて、ライダーの中には和田峠と聞いて思い当たる人がいるかもしれない。この山の尾根には、ライダーのメッカ、ビーナスラインが走っている。そんな第一級の観光道路には目もくれず、横切ろうとしているのだからずいぶんおかしな旅をしている気はするが、たまにはこんな知的好奇心を満たす旅も悪くないもんだ。
『和田峠の農の駅』のスタッフに「和田峠へは歩いて行けますか?」と聞いてみれば、峠の交差点のすぐ脇から旧中山道へ入れるという。行程は峠まで20分ほど。食事したよしみでW800も駐車場に置かせてくれるというから歩いてみることにした。ビーナスラインへは何度となく走りに来ているが、和田峠へ上がるのは初めてのことだ。…と、好奇心にまかせて歩きはじめたのはいいが、数分で息があがり、ソールが平らなラインディングブーツを履いてきたことに後悔する。草木の生い茂る幅3mほどの道が続く。荷馬車も通ったことから階段などはないものの、もはや登山に近い山歩きだ。思わず「キツイ!」という言葉が出そうになるが、江戸からここまですべてを歩いた当時の人を思えばと、喉まで出かかった文句をなんとか飲み込む。バイクでヒョイッとやってきて、小一時間歩いて音をあげてちゃ昔の人に申し訳ないだろう。この中山道、驚くことに真冬も歩く人が絶えなかったという。さすがに道楽で歩く人は少なかったようだが、役人などは用があれば、冬の和田峠も越えることがあったらしい。当然、雪山である。今でこそゴアテックスのレインウエアに登山靴とそれなりの装備をすれば雪山も楽しめるものだが、ワラと木綿くらいしか防寒素材がなかったころの冬の峠越えを思うと、もはやなにもいえなくなってしまうのである。実際、行き倒れになる人馬も多く。和田宿と和田峠の間には、人馬が一息つくための休憩所を設置。冬季は24時間たき火がたかれ、人には粥、馬の餌などが無料でふるまわれたという。
ちなみに僕には、和田峠と聞いてもう一つ思い浮かぶモノがある。黒曜石だ。日本史の授業で、縄文時代やその前の旧石器時代に矢じりやナイフの材料として使われた…、なんて感じで教科書に登場しているハズだから、その名前くらいは頭の片隅に残っていたりするかもしれない。実は、その黒曜石の国内有数の産地が、この和田峠だったりもする。まだ稲作どころか土器もなく、狩猟採取に頼っていた旧石器時代。この地で産出する黒曜石は、いわば天然のガラスで、割ることで鋭利な刃物に加工しやすく、矢じりやナイフの原料として相当重宝されたらしい。道具の質がよければ獲物も獲れる。獲物がよく獲れるとなれば誰もが使いたがる。…ということで、この場所で取れた黒曜石は関東地方まで運ばれ、遠くはなんと海を渡った北海道の遺跡で見つかっているという。つまり物々交換なのか、強奪なのか、拾得なのかはわからないが、石器時代の当時も他の集落との交流があり、人々が行き交っていたということだ。
その黒曜石の流通について今回の旅でびっくりさせられた。てっきり僕は、狩猟に出た狩人が旅先で別の集落の狩人に出会い「ウサギがたくさん獲れたなら、この矢じりと交換してくんない? 今回ノルマ足んなくてさぁ…。ちょっと一族が冬を越せるか微妙なんだよね」、なんて会話があったかどうかは知らないが、そんな風にして黒曜石が日本各地に広がっていったのだろうと思っていた。ところがである。どうやら旧石器時代の後期には、このあたりには黒曜石を採取加工して出荷するような工房があったらしい。どう考えても自分たちが消費する量以上の石器を作るための加工所跡がこの和田峠あたりでいくつも見つかったているというのだ。
貨幣はおろか、米すらもまだない数万年前の旧石器時代に、そんな黒曜石を使った産業があったことが驚きである。しかも、そんな大規模な工房があったということは、加工した商品を消費者に届けるための物流や、他の集落との商い、つまりは経済活動が成立していたということである。僕が旧石器時代に熱中した子どものころには、そんな話は聞いたことがなかったが、どうやら歴史研究という分野は新しい発見によって、どんどん事実が明らかになっていくものらしい。和田峠の道端に今なお転がる黒曜石を見ていると、なんだか妙に感慨深い。100年や1000年どころの話ではない。数万年前からこの地には人が住み、往来があり、行商を行なうための道があったということなのだ。その道がいまなお残る中山道と一緒だったかどうかは別だとしても、そんな大昔から旅をしていた人がいたという事実は驚きでしかない。
鉢伏高原スカイライン

標高1600mの高ボッチへと続く『鉢伏高原スカイライン』を走る。簡易舗装の狭い道で走りやすくはないが、景色はすばらしい。こんな高原があったのか!?
高ボッチ山荘(鉢伏山荘)

『高ボッチ山荘(鉢伏山荘)』でコーヒータイム。オーナーからこの一帯が牧場だったころの話しをうかがった
鉢伏山


高ボッチ山荘の駐車場から歩いて20分ほどで『鉢伏山』の山頂だ。心地よいトレッキングを楽しもう

和田宿界隈は知る人ぞ知る黒曜石の産地でありまして、謎のトンネルをくぐって鉱物探検。ちょっと地面を探ればここかしこに黒曜石がありました


20分ほどでこんな感じで黒曜石を発見。ここの黒曜石はかなり質がよく、縄文時代に北海道まで流通していたというから驚きだ

高ボッチの裾野にあった林道。今回の相棒のW800は、林道走行も楽しめた。今度はオフ車でやってくるか
ツーリングを記録するならRISERアプリ
RISERアプリをダウンロード「App Store」「Google Play」
難所の峠越えのご褒美! 温泉天国が待っている!!
さて、バイクでの旅を続けよう。登山でかいた汗を下りの勢いに任せて、風で散らしていくのが実に心地いい。中山道は和田峠から西へと下りた諏訪湖湖畔の下諏訪宿で甲州街道と合流することになる。両街道ともに江戸・日本橋を出発し、中山道経由なら二十九宿目、甲州街道経由なら三十九宿目となる宿場町が下諏訪である。中山道としては唯一の温泉地と一緒になった宿場町であり、一つ前の和田宿とは比べられないほど観光都市として拓けた街が諏訪湖の湖畔に広がっている。つらく険しい和田峠を越えた先にある温泉付きの宿場町。ここは旅人たちとって天国のような場所だったに違いない。
下諏訪大社の下社秋宮にほど近い、甲州街道と中山道の合流点で右折するとそこは再びタイムスリップしたかのような古い町並みが続いている。ツーリングマップルを広げてみれば、一直線の国道 号線の脇になんとなく旧中山道と思える道が続いているのが見てとれる。こんな古道をたどる旅をしている。と、不思議と目的の道を嗅ぎ分けられるようになるものだ。モノを書く仕事をしていながらうまく言葉にできないのがなんとももどかしくあるのだが、中山道には中山道の、東海道には東海道の雰囲気がなんとなく道から感じられるものなのだ。街道に限らず、国道・県道・町道だってそれを感じることができることもある。国道20号は、東京でも下諏訪でも国道20号の『におい』がするものなのだ。そんなわずかに残る旧中山道の『におい』を嗅ぎ分けながら、下諏訪の街を岡谷に向かってW800と進む。交通の主脈は当然今の国道20号に移っており、もはや旧中山道は単なる住宅街の路地裏だったり、歩行者専用の橋を渡ったり。『こっちが中山道くさいな?』と嗅覚を研ぎ澄ませて痕跡をたどっていく楽しさは、もはやゲーム感覚である。こんな路地裏の旅が気兼ねなくできるのもバイクならではの旅だろう。車ではおいそれと入り込めず、徒歩ではちょっと遠すぎる。
そういえば和田峠で出会ったおじさんは無事、この下諏訪へとたどり着けたのだろうか? 山の中で出会ったその人は、日本橋から旧中山道を歩いてたどる旅をしており、何回かに行程を分けて、中山道の終点・京都を目指すのだという。その第一弾が日本橋からこの下諏訪だと誇らしげに話してくれた。7日間歩いてようやくたどり着く和田峠だったのだ。 そんな往時をしのぶスローな旅もおもしろそうだと思いつつも、その実かなり大変そうである。それしか手段がなかった時代ならともかく、電車も車もバイクもある現代なのだ。バイクでなら、中央高速道路でこの下諏訪の街までざっと3時間。心の弱い僕は日本橋から中山道を歩き始めて3時間経ったところで「バイクでなら今ごろは下諏訪に…」なんて不毛な愚痴が口からこぼれるに決まっているのだ。
閑話休題、話がそれた。さて旧中山道をめぐる今回の旅。諏訪盆地の岡谷から急勾配の坂道をたどって塩尻峠へとW800を走らせたものの、まだまだはてしなく続くように思える中山道に、そろそろお別れを告げなければなるまい。そんなところで旧中山道に現れたのが高ボッチ高原へと誘う案内板。この高ボッチ高原、以前からツーリングマップルで見かけて気になってはいたものの、訪れる縁が今までなかった。高所に上がれば、これまで走ってきた道のりが一望にできるかもしれない。そんな期待もあっのだが、1.5車線ほどの狭めのワインディングをW800を揺らしながら尾根上へと一気に駆け上がれば、北アルプスの大パノラマが眼前に広がる。気をよくした僕は、高ボッチ高原からさらに奥へ。勢いあまって標高1928m鉢伏山の山頂展望台まで上がってみたが、なるほど聞きしに勝る贅沢な景色である。塩尻の街を挟んで向かいには、北アルプスが連なり、反時計回りに視線を移せば、御嶽・中央アルプス・富士山・八ヶ岳と日本を代表するオールスターが勢ぞろい。眼下には諏訪湖まで並ぶ。ここは登山道を歩いてでも来る価値が十分ある。残念ながら、越えてきた和田峠は見つからなかったが、ほぼ同じ高さの霧ヶ峰から連なる尾根のどこかに、和田峠があるのだろう。
諏訪湖を見ていて考えさせられるのは、和田峠から見た足元から諏訪湖、そしてその奥の伊那谷へと続く景色のことだ。これがどうにも不可解なのだ。和田峠を越えて下諏訪、岡谷へと中山道が続くのはわかる。しかしなぜ中山道は諏訪湖から流れ出る天竜川とともに伊那谷を進まないのか? わざわざ湖畔から急登の塩尻峠を越えて北上。伊那谷から尾根一つ回り込んだ北側の木曽谷を使って南下するか? 途中には三大難所にも数えられる鳥居峠も待ち構える…。バイクでお気楽な旅をする僕からしたって、平坦な伊那谷を通って南下した方がよっぽど簡単そうだし、効率的だと思えるのだ。物流、政策、物理的事情、中山道が木曽路を通るのには、なにかしらの理由があるに違いないのだが、いっぺんにそれを解き明かすのはムリってもんだ。『中山道はなぜ伊那谷を通らない?』。この疑問は、またいつかの旅のお題にとっておくことにしよう。走ってみるからわかることが、なにか必ずあるハズなのだ。だから旅はおもしろい。
塩尻峠

『塩尻峠』は下諏訪宿と塩尻宿の間にあった峠で、現在は国道20号線の峠として知られている。江戸のころの峠は旧中山道の山の中に残され、かつての面影を伝えていた
薬師平茜宿


高ボッチ高原から松本側へ下ったところにある崖の湯温泉の『薬師平茜宿』。山の中にある一軒宿で、どことなく秘湯ムードが漂っている。薬師平茜宿の露天風呂は眺望抜群。北アルプスと松本の町並みが見渡せる。ちなみに崖の湯温泉の由来は、鎌倉時代に起 きた崖くずれで鉱泉が湧きだしたからだそうだ
諏訪湖

和田峠〜高ボッチ〜諏訪大社と走り、旅の最後に諏訪湖へと立ち寄った。『諏訪湖』は御神渡り(おみわたり)、武田信玄の水中墓伝説、最近では映画『君の名は。』の舞台になったりと、さまざまな伝説や物語の舞台になった湖なのだが、なにはともあれ、風光明媚な光景に 気持ちは満足なのである
万治の石仏

下社・春宮の近くに鎮座している『万治の石仏』。いくつかの言い伝えがあるが、1974年に石仏を見た画家の岡本太郎が絶賛し、世に広まったとか。なんとも不可思議な姿だが、周囲を3周すれば『万事よろずおさめました』となるそうな
諏訪大社・下社秋宮


諏訪で7年ごとに行なわれる大祭『御柱祭』。その最大の見せ場が『木落し』。高さ約18m・重さ6〜8tの巨木を最大斜度35度の木落とし坂から一気に落とす。坂の頂上立ってみるとそのすごさがわかるというものだ。山から切り出される御柱は合わせて計16本。これを人力だけで運ぶというのだから驚きだ。しかも1,200年間も続いている。これは下社の秋宮に奉納された御柱
片倉館

宿からちょっと歩いて『片倉館』へ。温泉らしからぬ重厚な洋館は国の重要文化財だ。ということで、昭和ロマン漂うここの千人風呂で旅の汗をゆっくりと流しますか
ツーリングを記録するならRISERアプリ
RISERアプリをダウンロード「App Store」「Google Play」
※本記事は2019年6月24日発行タンデムスタイルの企画をベースにしています

















この記事へのコメントはありません。